たたたた。

あんまりじろじろ読んじゃ嫌。

部分と全体はごっちゃにしてはいけない

一部分に対するコメントや評価を、全体に対するもの、と混同する人たちがいるようだ。

障害者に対する同情

「障害者をかわいそうだと思うことが許せなくなった」甲子園優勝の大阪桐蔭主将、中村選手が中学時代に綴った作文

僕は「かわいそう」と思うのは良くない事だと思うようになりました。なぜかというと、人に対して「かわいそう」と思うことは、その人を見下しているように思ったからです。

障害者に対してかわいそう、と思うことは、その「障害を持っている」という一部分に対してだ。その部分は人よりも不便なことが多く、かわいそう。だからサポートして少しでも不便さを減らすという考えになる。しかし、だからといって人生までかわいそう、とは言っていない。ここが勘違いの元となっている。

中学生の作文なのでしょうがないけれど、読んだ人は正しく上記の違いを意識しているのだろうか?

ここを混同して考えると全体の肯定のために、部分の無理やり肯定する必要が出てくる、例えば障害をポジティブなもの(天使ちゃん!)、として考える人が産まれてしまったりもして、とても不幸。

人に対する評価

日本人はとにかく「変な人」に厳しい - 生きづらいふ

Aさんが、コンビニで万引きをしてしまったとする。このことがテレビニュースで報道されたとしよう。その報道を見た世間の人々は、Aさんのことを「万引きを犯した犯罪者」だとか「しょうもないやつ」などという評価を下すだろう。たしかに報道上、Aさんはコンビニで万引きを犯した犯罪者だ。

全体的に主語をむやみに大きくしたり、論点がズレまくった主張なので、きっと筆者は先ほどの例と同じく中学生では、と類推しているが、言っていることの一部は、「人の部分で全体を判断するな」ということ。

同様のことはたくさんあって、「東大生だったら頭いいから仕事ができるはず」とかいうよくある悩みも、同じ原因から発生する。不幸不幸

しかしながら、相関はある場合も

但し、もちろん相関がある場合もある。ここもややこしいところ。東大生はやっぱり頭がいい人が多いし、プロ野球選手は脚が早い。データで証明されているものもあれば、一見そうは見えても否定されている例もあったりする。長いのでここでは書かない。

まあ、結局言いたいことはメイウェザーにはおかしい挙動が沢山あるが、だからと言ってボクサーとしても否定するのはどうかってことだ(無理やり)。